雑記 権威 やさしいこころ

ちょっと縁のあったひとが137回芥川賞候補にノミネートされたそうで、びっくりして鼻水をたらしながらすごいなぁすごいなぁとあほ丸出しである。


最近携帯電話の調子が悪く、ケータイアップデート機能を試みる。
実行すると20分くらいで終了。
何がどう変わったかまったくわからないのに、俺は大変ありがたがって嬉しくて誇らしくて、なにやらこのボロ携帯が輝いて見えました。


先日水を変えたのだが、ご飯や料理が美味しくなった気がしている。おいしいねぇと喜んでいる。


俺は権威やラベルやレッテル*1に大変弱く、盲目的にありがたがってしまいます。


昔仏教を学んだときに、自由なこころを持つことを目指す宗教だと教わりました。
それは、例えば高価でオシャレなフランス料理と屋台のラーメンを食べ比べたときに、雰囲気や権威に惑わされずただただズバリ味を比較して判断が下せるような平常心、とらわれないこころのことだそうです。


道家をかじった時、列子に弓の達人の話があった。自称弓の達人が、足場のぐらつく山頂で怖くて弓を射てず未熟を知るような話だったかな。忘れた。


とらわれないこころは俺の功夫によると、「無感動」では決してない。


現象学の教授の言葉を思いだす。
「本来的な生」を問われた氏は目がすっと細まり独り言の様に言ったものだ。
「それは…生き生きとした生き方だと思います」


死んで生き返る呼吸。自由自在なこころ。
死を隠蔽してだらだら息をしているだけの俺は、何もしていない自分にうんざりする。
否、全力で生きていない俺には絶望する資格さえない。

カバさんの牙には、小鳥がとまるんだぜ


とらわれないこころは、レッテルの「とらえる力」の強さを知っている。
その上で克服し、「気にしない」
裸の王様の子どもは、自由なこころとは呼べないのだ。


目を背けても、拒絶しても、正しくはない。

勇気が欲しい

*1:ラベルとレッテルは同じものですが