Vol3 サリンジャー号 総評

モンキー ビジネス 2008 Fall vol.3 サリンジャー号

モンキー ビジネス 2008 Fall vol.3 サリンジャー号

個別作品については後日
たぶん一言二言コメントする程度になると思う
今日はまず全9作の 俺なりの評価を。

◎:傑作
○:良作
△:よくわからん
?:保留

バナナフィッシュ日和
コネチカットのアンクル・ウィギリー
エスキモーとの戦争前夜
笑い男
ディンギー
エズメに――愛と悲惨をこめて
可憐なる口もと 緑なる君が瞳
ド・ドーミエ=スミスの青の時代
テディ

全体を通して俺がうーむと唸ったのは
”会話の遮り”という手法だった
「バナナフィッシュ」「コネチカットの」や「可憐なる」などはこの遮りが頻出だし
他の短編にもちょくちょく出てくる
これに関係すると思われるモチーフがもうひとつ”対話の不成立”
特に子どもとのそれの不成立。そしてこの9作には多く「子ども」が出演する。
「バナナ」の幼女「コネチカットの」の娘「エスキモー」主人公「笑い男」主人公たち「ディンギー」の息子「エズメ」弟「テディ」テディ
不思議な謎掛け小品「可憐なる」と、子どもとは呼びにくい年齢の主人公の「青の時代」以外は
不気味で不吉で不機嫌で黒々ととぐろをまく”子ども達”が、じーっとひとびとをねめつけている


”会話の遮り”について、まっさきの思い出したのは
川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」感想の「YesYesYes。NoNoNo。主張で隙間なく満ちた魂。」
だがナインストーリーズの面々は、相手の言葉を受け取る「余地が無い」のではなく
受け取る「つもりがない」ように感じた
よく使われるように会話をキャッチボールに例えると
わたくし率は両者 剛速球ピッチャー状態で
サリンジャーは微動だにしないキャッチャー、みたいな
「投げてこいよ ただし俺の望む「ここ」に!それたボールに興味は無いぜ」
拷問者があらかじめ想定した「自白」を強要するような
そして叶わなければゲームセットを宣言するような
エゴ丸出し自分勝手極まりない登場人物
そのぐだぐだのすれ違いっぷりは圧巻で
それだけに
やぶれかぶれのコミュニケーションが図られた時は、なお圧巻である


不気味で不吉で不機嫌で黒々ととぐろをまく”子ども達”
理解を拒絶ししかし何かを確かに何かをちいさな身体に抱え込み
それは子を守る親のように牙をむき威嚇する獰猛な獣
ミツバチのささやき アナの問いかける目 その目は一途で真剣だが、小屋でお父さんから逃げ出すように、ファイティングではない。
サリンジャーの子ども達は
敵意悪意をむき出しにしておとなたちを見る見る睨み付ける
あの手この手のおとなたちの言葉を、軽蔑している
岡本太郎は言う。「子供は見とどける。そして許さないのだ」
俺は肩をすくめざるを得ない。こどもの時代を生きるときにはこどものハートでしか生きることが出来ないのだから
精神年齢は幼い俺ではあるが とてもじゃないが子どもと言い張れる年齢ではない
子どもの気持ちがわかるかだって? わかるわけがない。
二十代でライ麦畑を読んだ時にも痛感したが
俺はサリンジャーを読むのが遅すぎたのだろう
特に後悔は無いが。*1


アメリカ人ってのは絶望的に孤独なのだろうなあ
眠り号の鼎談「眠っているのは誰(何)か? 」で指摘されていたように。
だが俺の知ったことではない。
ひとりで死ね。寂しく死ね。
支配と排斥の原理

もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
 いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。

まあ、アニメでも一本観ようではないか。*2

*1:かわりにわが魂の座にはヴォネガットが君臨している

*2:もうやだこの星w