メカビ感想その16:p62−65
- 萌えの入口論(抄):p62−65
- 要約・抜粋
- 「萌え」「愛」「好き」の類似と差異について
- 感情を向ける対象の違い。萌えの対象は「意思疎通に隔たりのある存在、あるいは自我を生々しく主張しない存在」
- 「「萌え」とは、人が「対象の内面の中に入り込み、そこに理想的なものを投影し、感じ取る」ことができた時に得られる愛情、思い入れから来る一種の「愛着」」
- 「この一連の行為を、筆者は「対象に入り口を作って、その内面に入る」と形容する」
- 愛情は対象の内面への感情移入
- 三次元の「身近な」相手を愛することが難しいのは、「その人物に自我が存在することを知っていて、」「安易な感情移入を自重しているから」
- 一方架空のキャラクター(往々にして「そのように作られているそれ」)は、想像しやすく演じる乃至は内面空虚な様態でもって、受け手が自己投影しやすい。
- これに加えて「不可解かつ異質なパーソナリティを備えると魅力的キャラクターとなる。」
- 本雑誌ではここまで。
- 続稿では「「入り口」を作るとは実際にどういうことで、何が必要なのか」を説明するそうである。
感情移入、思いやり。他者の内面への想像と自己投影。
想田氏「「萌え」を定義する試み」は「自己→対象」関係の「自己→」にぎりぎりまで接近した後保留とし、「→対象」の考察に集中した。
いずみの氏は本稿にて「自己→」をさらに掘り下げる。それこそ独我論寸前まで。
萌えはわたくしに在る。手品師と観客が一体である状態。対象は増幅装置として手に合うように作られている(割と天然物も道具化出来る)。
ただ8の扱いは特殊だ。全面自己介入を避ける巧妙な欺瞞か、いずみの氏いうところの「出口」への意思か…
さてこれらを踏まえて出てくる俺の結論は「萌えは自己精神の道具化である。萌えの『病状』『境地』の深化は自己道具化の深化に比例する」という地点だ。
トールキンが死ぬほど主張した「行って、帰ってくる」に即して言えば、行きっぱなし、地獄の片道切符。
自己完結。予定調和。驚きの排除。
異常だろうか?
これを「平和」というのだよ。
第9条 オタクは、正義と秩序を基調とする他人間平和を誠実に希求し、人権の発動たる競争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他人間紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、会話術共通の話題服装その他の人間力は、これを保持しない。オタクのコミュニケーション権は、これを認めない。
オタクはなぜ校内暴力問題・家庭内暴力問題の「次」に立ち顕れたのか。
ああオタクのための鎮魂歌が聞こえる。
演技せよ、コミュニケーション能力があるように。
自己投影せよ、彼/彼女/それもまたやさしいにんげんであることを祈って。
夢よ醒めるな国よ破れるな。
私はあなたを愛している
(私は私を愛している)
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