Vol.3.5感想 『ナイン・ストーリーズ』とストーリーテラーの死

ナイン・ストーリーズ』とストーリーテラーの死

  • 筆者ローランド・ケルツ
  • 小林久美子訳
  • 概要
    • ナインストーリーズ総評。最初と最後の短編について。
    • 筆者個人のサリンジャー体験について。ライ麦は14歳で、ナインは二十数年前に読んだとのこと。
    • ライ麦畑について。初読時の感想
      • 「自分の声がより拡大され研ぎ澄まされたように感じた」
      • 「(そんなに昔の人間がどうして僕のことをよく知っているんだ?)」
      • ホールデンと、その妹フィービーについて。スーツケース
      • 妹は旅立たせることを拒んだ。青年は生き抜いた。
      • 「フィービーこそが、自分を本当に必要としていると彼に実感させたからだ」
      • 「僕に生きる理由を教えてくれた」
    • ナインストーリーズについて
      • ライ麦畑との対比。「まずはこう思った。」「サリンジャーは(中略)決してエンターテイナーではないのだな、と」
      • バナナフィッシュについて。「最初の数行でホールデンが嬉々として葬り去った」「すなわち事物の細部にとらわれた十九世紀の小説家そのものようにみえるのだ」
      • サリンジャーは僕を裏切ったのか?」
      • しかしそのラストはまぎれもなくサリンジャーであった。シーモアはフィービーのいないホールデンだったのだ。
      • 筆者ローランドは、短編集を読む場合、最初の短編の次は最後の短編を読むようにしているとのこと。
      • 「短編集」という製品をどうやって仕立て上げたかを知りたいから。
      • 最後の短編テディはまさにバナナフィッシュを補完するものであった。
      • ふたつの短編において、「真の精細な人間にとって、死のみが唯一の逃げ道だということが示される」
      • しかし筆者ローランドは、読んだ当時も読み返した現在も、「実はそんな心境に至っていない」
      • 筆者ローランドは思う。「彼は作家としての責務を果たしているのである。真実を伝えるという責務を」
      • 六番目の短編「エズメ」について。傑作である。
      • 話し言葉の達人サリンジャー
      • ナインストーリーズにおいてサリンジャーは三人称の語り手となった。
      • 断絶、ついて。
      • ありのままの自分と、作られた自分。欲望と、必要。暴力と、真の救済。それらのあいだに横たわる、断絶
    • ウォレスの自殺。サリンジャーは自殺していない。
    • シーモアとテディは自殺した」
    • 「しかしX軍曹とホールデン、そしてサリンジャー氏は、今なお僕たちと共にある」
    • 「僕たちが彼らと共にあるように」

感想。なんとも濃密。ほろ苦い感傷と強靭な肯定に貫かれた名文。


短編集を読むときに最初と最後の短編を読む、という手法には感心した。編集者ならではの発想というべきか。いつか試してみたいものだ。
そしてこのローランド氏の指摘によって、俺もバナナフィッシュとテディを繋げてみる視点を獲得したわけだが
驚いた。俺の初読時、両作品の間に1,2週間の時間があったのでうかつにも気づかなかったが
テディにおいて死ぬということを「解説」しているではないか。
同時に、サリンジャーはまだバナナフィッシュしか読んでいない嫁さんからの指摘、
すなわち、
「勘違いするな、シーモアは”拳銃自殺”をしたわけではない。”自分の右こめかみを撃ち抜いた”というアクションをとったに過ぎない」
それは、我々にとっては狂気の奇行と見える、いくつかの(おそらくは”機能万全”に戻ろうと足掻いたための!)、「試み」のひとつでしかない。
そういう意味では一種の治療行為といえるかもしれない。


私事で恐縮だが
俺はVol.3サリンジャー号を読み自分なりの感想を書き終えたあと
ネットでみんなの感想をよんでみた。バナナフィッシュのラストに様々な解釈があった。
柴田先生岡田さんの対談を読み、今回ローランド氏のエッセイを読んだ。嫁さんの感想を聞いた。
巻頭に掲げられた隻手の音の公案
それらが繋がって、やっと俺の中で
ナインストーリーズサリンジャーの作り出した公案集であることが得心いった。
別段独創的な説でもない*1のだが、それが腑に落ちたわけだ。
先日脚注に書いたように「西洋の男曰く「問う。何故彼は自殺したか?」」。


公案には良し悪しがある。
白隠の隻手は自他共に認める傑作と言われている。
おおくのひとびとの、どこか、なにかを、打ったからだ。
わからないなりにぴんときて、うっと唸って考え込んでしまわせるちからを持っている


多くのサリンジャー作品への考察・論考のなかで、隻手を初めとした公案に対して
「答え」「正解」という表現が散見された。それは例えば「公案に正解はない」などという形で。
俺のような参禅したこともない知識だけの野狐禅がここに意見を書き起こすのは恥ずかしくてならないが
あえて恥をかくと
公案に正解がないのは間違っていないが、正答・誤答に絡め取られるのは、気合が入っていない。
公案に対しては、上手と下手があるのみである。
ジョンレノンがイマジンを歌えば万人を感動させるが
俺が「同じ歌」を歌っても誰も振り返りもしないように
贋作者の絵画によく「魂が入っていない」(!?)などと言われるように
隻手の音に対して同じように例えば「わかりません」と応じても
気合が入っておればOK
腑抜けていればNG
問題はこの判断を「わかるひとにはわかる」式にせざるをえない点
誰が彼の悟りを証明するか?証明者の悟りをやはり誰が証明するか?
公案集は、単なる五線譜、あるいはメロディと歌唱力が抜け落ちた歌詞カードに過ぎない。


サリンジャーは素晴らしい公案を編み出した。あたかも白隠がうっかり隻手を思いついて自分でびっくりしたほどに。
数十年以上おおくの国のひとびとに思わず何かを考えさせるちからを備えた小説群。
見事な作詞家だと言えよう。


だが俺はサリンジャーが嫌いだ。
なるほどローランド氏がいうようにサリンジャーは自殺していない。ここは評価できる。
サリンジャーの人生はどうか?どのような歌を歌い上げた/歌い上げているか?
世界はろくでもない。OKそれはいい。それは間違いない。
このろくでもない世界に俺たちは嬉々として加担し、暴力と差別によって多くのひとびとの涙を絞りぬくぬくと恩恵を受けている、その温室の中、世界は悲惨だなどと沈痛な面持ちをしてみせる、ああそれは間違いない。
俺にとって「自分の声がより拡大され研ぎ澄まされたように感じた」カート・ヴォネガットは、最後の最後まで足掻いて見せたとおもう。その効果のほどはともかく。
俺の見たところ、サリンジャーは街に帰ってこなかった。*2
しかし、誰も、彼を臆病者と非難することは出来ないかな、とは思う
ただ残念なだけで。

*1:隻手の公案ナインストーリーズを読み解くキーと捉える考察は多かったです

*2:AAでよくわかる十牛図http://d.hatena.ne.jp/mini_k/20070622/p1