池田晶子死去:ワルキューレの騎行

俺の功夫はわずかなものだ。哲学は動詞つまり哲学するであり、哲学するとは考えることイコール疑うことである。やっとこれだけ。


池田女史の著作はわずかにしか触れていないが、みたところソクラテス産婆術をすっかり体得なさっていたように思う。こういった感触を受けた著作は他にはない。


体系だった善く疑う技術こそが哲学と呼べる。何をテーマに何故疑うのかは、時代が決める。
歌手の評価はおおまかにいって歌唱力と持ち歌で構成される。
俺は彼女の持ち歌には共感できなかったが*2、その抜群の歌唱力を賛嘆してやまない。


哲学に魂を売り渡したにんげんが天国へ行ける等と思うなよ。天国はにんげんより無限に遠い。

しかし、それは考える葦である

天国には人外とならなければ入ることは出来ない。考えることを止めなければ。


偉大な格闘家である女史が死してなお哲学することは間違いない。
だがしかし、と誰かが言う。暫しの休息を入れられよ。そちらには古今東西の名人達人がてぐすね引いて待っている。スパロボ大戦みたいなものだ。剣呑剣呑。


戦歌が響き渡る。御武運を。

*1:追記asahi.com:「14歳からの哲学」池田晶子さん死去 46歳、腎がん - おくやみhttp://www.asahi.com/obituaries/update/0302/002.html

*2:俺には俺の持ち歌があるべき故に