映画「太陽」主演イッセー尾形:感想(ネタバレあり)

小学校低学年の時分、縦笛を吹く音楽の授業があった。クラスのみんな頑張り競って笛を吹いた。教科書の音符通り吹くと当然音楽になる。俺はそれが楽しくて授業そっちのけでどんどん吹き進めた。テキストの最後のページが君が代だった。ああ、日本の国歌なんだと思いながら*1襟を正してチャレンジしてみた。ところが曲の最後が「レ」であった。俺は激しく衝撃を受けた。これは今でも生々しく覚えている。レで終わる曲など聴いたことも吹いたこともない。明らかに、それまでテキストに掲載されていた楽曲とは異質な曲であるということを何よりもまず体験したのだ。俺は動揺して音符の読み間違いを何度も確かめたものだ。間違っていなかったし、その後NHKあたりで演奏を聴いて間違いないことを知った。
俺は日本に生まれた日本人だから、日本の国歌は「分かるに違いない」と素朴に前提していたらしい。教科書に載っていた他の曲と同じような心地よいメロディーなのだろうと思い込んでいた。寄って立つ音楽理論が違う曲。それが日本の国歌であるという事実。

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鑑賞中にずっと感じていたのは異様さ。


あらすじ。時は終戦寸前から終戦直後にかけて。場所は皇居の地下防空壕マッカーサーのいる所。昭和天皇マッカーサーと二度対談し、人間宣言(神格否定)を選択し実行する。


(映画館の防音は最低であった。もっと設備のいいところで見たかった。)
さて、上映開始直後、映画に入り込めない自分を見出した俺は焦り怪しんだ。
昭和天皇侍従長の会話。周囲の人間の仰々しい気遣い。不自然な人物の動き。全てが異様に感じられた。その様は「どこの芝居だ?」と思うほどに白々しく、ままごとめいていた。役者達の演技の優劣を言っているのではない、彼等は、「昭和天皇という役割を演じている人物」と「昭和天皇侍従長という役割を演じている人物」を、見事に、演じていた。
なんということだ…
天皇という仕組みを成り立たせるための規則が存在している。だがその規則の理由が見当たらない。理由があり規則ができ結果天皇が生まれたわけでなくて、天皇の役割が前提されて規則が定められている。本末転倒だ!と俺の世界観が悲鳴をあげる。
「台詞を読み上げているような」台詞が続く。芝居をしているような遣り取りが続けられる。
不意に昭和天皇は「あ、電気通ったね」と嬉しそうに早口で呟く。まるでアドリブのように。この位のひとことなら良いよね、って感じでポツリと。
ぞっとした。普段の掛け合い日常会話は演技だったのだ。天皇という役なのだ。人間味を出すことを何かの要請によって遠慮しているのだ。こっそりご褒美のお菓子を素早くつまむように彼はそれを自分に許したのだ。
やっと俺はこの人物をめぐる作品の見方を手に入れた思いだった。
全編、天皇の発言の多くが声が小さく不明瞭で聞き取り難い。声を荒げることは少ない。一番激しい動きは、ひとを呼ぶとき手を鳴らす仕草だった。
会話のいくつか、御前会議や、特にマッカーサーとの遣り取りは、まるで禅問答。
専門の海洋生物学、蟹やナマズについて語るときだけスイッチが切り替わるが如く夢中で幸せそうな口調になる。
うなされる天皇マッカーサーの元へ向かう車の窓から廃墟の東京を目の当たりにして呆然とする天皇。アルバムをめくる天皇チャップリンの写真、ヒトラーの写真をじっと見詰める天皇アメリカ兵のカメラマン達に「チャーリー」と呼ばれる天皇(「ところで私は例の俳優に似ていますか?」「分かりません、映画は見ないもので」「私も」)。
翼を持つ魚達による東京大空襲。月の光。謎の鶴。セピア色のフィルム。瓦礫、廃墟。
大広間にひとり残された天皇。しばらくして彼は立ち上がりゆっくり踊りだす。ステップを踏む天皇*2




夜。月光のなか、自室のテーブルにひとり座る天皇。これまで長い時間を掛けて来た。自問自答を始める天皇。独り言を呟く彼は、いつしか、テーブルの上に両手をかざしゆっくりかき混ぜ始める。占い師のように。自問自答が頂点を向かえる時、椅子に座った彼は両手を突き出し両足をあげてつっぱる。「神格という身分を自ら返上する…」。間。異様な笑い声。
突然のノックの音、それから皇后の登場。
彼女に神格否定の決意を伝える天皇。「なにか不都合がございましたか」「…おおむね不便だ。よくないよ」
ラスト、ある臣民の自決を知らされる天皇。「止めたんだろうね?」侍従長「いいえ」。固まる天皇。皇后モモーイのアップ。物凄い横目で天皇を凝視。絶句したままの天皇天皇をひっつかみ息子の待つ広間にひっぱって行く皇后。
侍従長、扉を閉める。


この映画を味わいつくすためには知識がいる*3。極端な例だが、主人公は「おかみ」「天皇陛下」とだけ呼ばれて、名前が一度も出てこない。彼は劇中裕仁と呼ばれることはない。「天皇は脳に例えられるだろうしその必要がある」の発言は天皇機関説と関連する。御前会議の参加者数名の老人達はだれひとり劇中に名前が出ない。それどころか大半台詞がない。その服装や顔から役職と人物をすぐさま言える人間が果たして今の日本に何人いるだろうか。場面や建物、時間軸の説明も皆無。
ドラマティックな場面が極端に少ない。いっそのこと「ひとつもない」と言ってもいい。俳優の「ひかる演技」や「個性的な演技」やそういったおいしい場面がこれまた少ない。只ならぬ緊張感と美しくあってはならない映像美で最後まで目が離せない。
呼吸するのも憚られる厳粛。なのに閃くユーモア。
イッセー尾形の口。くちびる。頬。半開きに少し歪んで突き出された口。震える頬とくち。細い目。慣れない行動*4に対する戸惑い。繰り返される着替え。日本語を喋っているよりも、英語を喋っている時の方が、自由な感じを受ける。


俺にとってこの作品に対する最大の疑問は、どうしてこれだけ観客が詰め掛けているのか、だ。見当もつかない。平均年齢は他の映画に比べて確かに高いかもしれないが、ずいぶん若い連中もいた。その青年達がみな演劇を志していると考えるべきだろうか。時かけと違ってブロガーを巻き込んでもいない。むしろネットでこの映画に関する評判をほとんど見かけない。何で知り何故観にきたのか。そこまでイッセー尾形は客が呼べる芸人だったろうか。謎は深まるばかりである。


俺は天皇という仕組みの意味がわからない。仕掛けはだいたいわかったし、規則もなんとなく察せられたのだが、なぜその仕組みが在り、今もあり続けているのかに明確な答えが出せない。
おおむね便利だから?
「どうして偉いの?」「偉いから偉いんだ」。
実在の王と架空の王。
実在の権力と架空の権力。
無限の権力。無限の権力と仮定された権力。漏らすことなき救わざることなきちから。
天網たれ。
遍く照らす太陽のように。
天は不仁なり。
善人も悪人も分け隔てなく照らすが故に。陽光は作物を育て陽光は作物を枯らすが故に。
仁というにんげんの規則に無関係であるが故に。
にんげんには出来ない停戦を行う。
にんげんには出来ないことを要請される。
役割。ロール。
外れぬ仮面。外せぬ仮面。


富める者、持つ者は量の問題である。
終戦直後に暗躍した麻雀打ちたちの凝縮した過剰な生き様は量の問題である。
兆という量は、一から数えたことはないが、あることは知っていて理解できて計算も出来よう。
彼が太陽であることは質の問題である。理から隔絶した解せざる問題である。
「あ、そう」
問えない、疑問を持てないその事実を、俺は了承できない。したくない。
俺はいうだろう。
「え、何故」


「何故なら、闇に包まれた国民の前に、太陽はやって来るだろうから」


……。
 
 
 
 

*1:当時日本には国歌と国旗は無かった。法で定められていなかったのである。それを知るのはもう少し後小学校高学年の時である

*2:「独裁者」と違い彼は地球儀を持たない。それどころかローソクの「火を消して回る」

*3:悪いことは言わない。パンフレット購入をお薦めする

*4:自分でドアを開ける、とか