水瓶刊行記念イベント

川上未映子さんと穂村弘さんのトークイベント会場は東京堂
以下はレポートではなく、俺の眼の感想と触発された心の吐露になります。

お二人について

俺は穂村さんの本を読んだことがなかった。お名前は知っていた。歌人らしいことは知っていた。学生のころ後輩が注目していた記憶がある。俺は何故か穂村さんの作品を避けていた。理由はよく分からない。西島大介さんが絵を付けていたからかも知れない。結局この10年ほど、あえて俺から近付かなければ、穂村さんの作品は俺に到達することはなかった。事実そういう結果だった。であれば、俺はそういうことなのだろう、と考える。俺は運命論者だ。必要なことは必要な時に立ち現れるという仕組みがある、と信じている。
今日、俺は穂村弘さんに到着した。

俺は穂村さんを見た

お二人が古い知り合いであること、対談の回数が多い事、から会話は始まった。俺は川上さんを見てもしょうがないので穂村さんを見ていた。髪が長い人だなあメガネが黒縁だなあと思った。俺は穂村さんは髪を切ったほうがいいのにと思った。特徴的なしゃべり方をする方だなと思った。サラリーマンじゃないんだなと思った組織よりも違うものに貢献するため行動している人なんだなと思った。
俺は穂村さんがゆらゆら揺れておりふるふる震えていることに注目した。俺は穂村さんには基地外がいるようだと感じた。穂村さんの、自他作品などへの解説や言説を聞いて組立や掘り下げに俺は驚嘆し、その発言を発語言語化出来ている事実を支える能力と努力功夫に思いを馳せて唸った。俺は穂村さんには解説する学者がいるようだと感じた。
合わせると氏の中に基地外と学者が同居していることとなり、どうやらそのようだと俺は思った。正直、そんなことがありうるのか?一方向に秀でるだけでも多くの人が脱落するというのに、二方向に高いパフォーマンスを発揮できるとは?
俺はこの眼でそれを見たのであるから、俺の感想など知ったことではない、談志師匠の言う通り現実が正解なのだろうと思う。
イベント内の例え話でいえば、穂村さんはA級将棋棋士かつ大盤解説者だということなのだろう。
地味に怪物であるなあ。

お二人の話しの断片などと俺の感想など

短歌と詩と小説について。男性と女性、それから男性の社会のなかで女性が活躍する困難?というかそもそもの不公平感について。
俺はうーんと思いちょっとどうしたものかと思った。
他の国は知らないが日本ではかなも物語も女性が生み出したと俺は認識している。日記もかなと女性が不可欠であったのだから女性が生み出したと言っていいと思う。歌、短歌は連綿と歌われてきただろうし漢語がベースにはなっているだろうけど、今俺達が短歌として認識する豊穣らしい一群は、やはり仮名があってより高度に発達したような気がする。*1
俺は日本の文学的なものは女性から発したと思っている。あながちおかしな事は言ってないと思う。その後男性が貸してもらった、きつい言い方すると剽窃したと思っている。
日本の文学の正統主流は女性の手になると俺は思う。
ただ、近代現代「小説」は西洋に端を発するし、価値を見出す社会は男性が支配する魔術であることも確か。
表現の業は読まれ認められることを欲するのだからその時の社会と衝突する。価値は社会が決めるから。
言い訳をさせてもらうと、男性側も必死なのです……

穂村さんはモテる

穂村さんは女性の表現者にモテるだろうなぁと俺は思った。話しをちゃんと聞こうとしてるし実際聞けてるし。
この辺は、同じ怪物性を持つ柴田元幸さんと違うところだと思った。柴田さんが女性をないがしろにしているわけではなく、氏は文学そのものを優先するし指針が自身の少年性だ。翻訳家はたぶん境界に立ちながらどちらの世界も尊重するのだと思う。
穂村さんはどうしてかは知らないが女性を受け止めようという意志がある。
俺は自分大好きっ子なのでどちらかというと柴田さん寄りかな。穂村さんはよくやるなぁと思う。感心してるような呆れてるような。
女性は建設と人工に向かない。生長とnatureに向く。男のなよなよした砂場遊びが、女性の猛々しく一顧だにしない災害性に最終的に敵うわけがない。
穂村さんは封を解きたいのか何なのか。俺はひやひやします。

完璧な本とか最終何とか者とか

この辺の話題はよく覚えていない。聞いてる間、ボルヘスとか猿のシェークスピアとかちらほら脳裏に浮かんだ気がする。
短歌にはデータベースがあると松岡さんが書いていた。俺はそれを思いだし、高度すぎる結晶は対応する読み取り機がないとデコード出来ない的なことも思った。
どの道も高度な受け手は少なく穂村さんが詩人に聞いたところ詩だと10人くらいと答えられたと言ってた。俺はそうだろうなぁと思った。
それについては禅の悟り承認の仕組みが先行してて、「わかる人にはわかる」式の証明不可能性が涙を誘う。万人が理解出来る前提の論理数理=自然科学を基盤に据えた現代社会が認める訳がない仕組みでファッキンシット。
俺は論理が苦手なので直感で行動しているが、これは俺の人生だからツケは俺が払うわけで、まぁ納得してもらえる線だと思う。
でも世界の行く末をどちらに任すべきか、俺は難しすぎて答えれない。ぶっちゃけあがく気にもなれない。
文字でお腹はふくれなくて、そうすると文字は人の心を殺せるし生かすことも出来る。究極の文字列があるとするなら読んだ人が全員に元気になる/死に絶えるものかなぁと俺は夢想する。
悟りに終わりはないらしいし、芸術に完成はないとのことなので、あがくのを止めたら試合終了ということだろうか。
俺としては、それらは趣味の範疇でやりたい。とてもじゃないが人様の期待と報酬を受けて乞う御期待!とは怖くて言えない。
文学に上手も下手もなかりけり行く先々の水に合わねば

おあとがよろしいようで

質疑応答は割愛します。
毎回思うのだが質問者はみんな何か書けばいい。
穂村さんからサインをもらう時、確かに俺は精査されていた感覚を覚えた。間近だと怖いなあの人。「ふーん、まぁがんばりなさい」的な。なるほど、この人には自分に興味を持ってもらいたい!と思うのもムリはない。恩師のことを思い出しました。
俺はこの日穂村さんの本を1冊買ったので読んでみようと思いました。

求愛瞳孔反射 (河出文庫)

求愛瞳孔反射 (河出文庫)

*1:やまとごころは日本の文字でついに飛翔した。ような気がする。