カズオ・イシグロ「日の名残り」感想:銀河ヒッチハイク執事

※ネタバレあり。注意。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

あらすじ。1956年イギリス。老執事は元女中頭に会うため数日の小旅行に出発する。


感想。穏やかで哀しい傑作である。小説として高度な構成と文章力がたまらない。*1

「さようでございます」

主軸は1956年の小旅行である。
老執事はおりおりの景色や出来事に触発されて、さまざまな過去を思い出し語る。その織り込まれ差し挟まれる出来事や人々の言動が物語に複雑で豊かな厚みをもたらしている。
人生の命題・一国の歴史国家の運命が、老執事の人生と相互に乗り入れ重なる巧みな構成。
語り口は執事の一人称だけあって抑制の効いた上品なもの。徐々に明らかになる執事の人生。
華やかな栄光とプロ意識に満ちた誇り高きそれは日の正中。

「申し訳ございません」

心躍る高揚の中、執事の思い出/戦前イギリスは次第に不吉なトーンを帯び始める。必ずしもそれはわかりやすい失敗や敗北としては現れない。むしろ勝利と無敵状態のなかにちらりと垣間見えるのだ。
父の退場。叔母の死去。主人の葛藤。渦巻く陰謀。女中頭との不協和音。
「地位にふさわしい品格」。
品格。何事にも動じない心。そうそれが何事であろうとも。執事道はシグルイなり。

「夕方が一番いい。」

老執事は誇り高いツンツンである。執事という職業に一生を捧げたプロフェッショナルである。
多くの同業者がいたという。歴史家が歴史の解釈によって善悪を位置づけるように、老執事は有象無象の業界人列伝によって、執事の基準を示す。
珍芸を憎み批判的な職務態度を良しとせず私事の優先を評価しない。
振るいに掛け大半を二流三流と判定し、ごく一握りの本物を賞賛する。
彼もまたその人生の夕暮れまで黙々と歩み続け鋼鉄の努力を怠らず、考え抜いた「在り方」を体現してきた超一流である。
だが老執事は弱気になる。
机上の空論ではない、日々の仕事と多くの修羅場を通じて鍛え上げた現場の哲学だ。その最良と信じて止まなかった在り方を彼は問い直す。
彼は涙する。
その時残照が訪れる。見知らぬひとびとはあたたかな連帯を持つ。その空気のなかで老執事の魂は甦る。

「偉大な執事とは何か」「42」

外国人が源氏物語を読み武士道を読み茶の本を読むようにこの美しい小説がイギリスの本質を活写していることを俺は疑わない。
ほんの息抜きに見えた描写がなんと伏線も伏線ラストの光であったとは。
これが英国流、ある種のジョンブル魂であると俺は深く了解した。
滑稽なものか。愚かなものか。
あなたは気高い、ミスター・スティーブンス。

*1:それにしても丸谷才一の解説は過不足なく見事だなあ。ちくちょう。