「白川静 漢字の世界観」感想:アジアとはなにか――白川静学の手引き

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書)

概要

編集者・松岡正剛氏が、漢字学者・白川静氏の生涯と業績をまとめて筋道立てた本です。
正剛氏の案内のもと、白川氏が「何故」「どのように」漢字を研究したのかが紹介されています。
正確には白川氏が研究したものは「甲骨文字」「金文」でした。現在の我々の知る漢字の「ルーツ」です。
それを通して古代中国の「システム」を逆算・類推*1し、東洋の仕組みを、引いては漢籍に影響を受けつつも独自に発展を遂げた日本の仕組みを、その本質を再構築する試みでした。
本書はその業績の手引きとなるでしょう。

感想

白川静の業績が
感動的でありスリリングでありアクロバティックであり
なにより
複雑で立体的であることを顕彰/検証した名著であります。
日本は実に、「脈々と受け継がれる」というしぶとい精神が裏に表に見え隠れする国ですが
軽々に表現されるその「脈々」の内実が、丹念に粘り強くそして誹謗中傷すら一顧だにせず積み上げられ充実されていく強靭さは、俺の胸を打ちました。
白川氏曰く

学問の道は、あくまでも「孤閨独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います。

ああ、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや



白川静 漢字の世界観」章題

本書について俺が語るべき言葉は多くは無い
俺ははただただ、ウェルギリウスの如き松岡正剛氏の鮮やかなガイドのもと、壮大神秘深遠な白川静の学に圧倒されながら行って帰ってきただけであるからだ。
その凄まじさと楽しさと、奥の深さをどうにか伝えようにも俺にその力がないのである。
また、原書に当たる白川氏の他の著作を浅学にも拝見したことがないのでそもそも批評する資格も持たぬ。
俺の乏しい知識に支えられた貧しい世界観が共鳴と共感を起こした、というにとどまる。
試みに本書の各章題と、いくつかの副題を列挙してみよう
このガイドブックは全七章構成。副題は俺が重要と感じたものを各2,3ほど勝手に抜粋した

  1. 文字が世界を憶えている
    • 漢字には原初の祈念や欲望がある
    • 「漢字」と「東洋」へのめざめ
    • 「文字を写しながら考える」
  2. 呪能をもつ漢字
    • 文字本来の「力」
    • 文字には呪能がある
    • 古代社会での言霊の攻防
  3. 古代中国を呼吸する
    • 古代は神話とともにはじまる
    • 東洋学としての白川学
    • 漢字のマトリックス
  4. 古代歌謡と興の方法
    • 歌を詠むために「思いを興す」
    • 古代歌謡は何によって生まれたのか
    • 詩経』の民俗学的解釈
  5. 巫祝王のための民俗学
    • 万葉集』と『詩経』をつなぐもの
    • 人麻呂「安騎野の冬猟歌」の大胆な解読
    • 巫祝王の時代はいつまでつづいたのか
  6. 狂字から遊字におよぶ
    • 新しい孔子
    • 孔子と「狂」の関係
    • 「遊ぶものは神である」
  7. 漢字という国語
    • 「漢字は日本の国字である」
    • 日本人の感覚で漢字をつかいこなす
    • 和漢混淆――日本のデュアル・スタンダード
    • 共鳴しつづける漢字の世界

もしもこれらの章題にぴんと来るものがあれば是非読んでいただきたい。

「入門書」?またまたご冗談を

はっきり明言するが、本書は入門書と銘打っているものの、
決して単純で明快な読み物ではない
かといって矛盾して聞こえるかもしれないが「難解」なわけではない。
邪魔になってくるのは、読み手に巣食う「常識」である。
読み手の、たかだた数十年の現在と自身が受けてきた狭く偏向した教育や知識が
軽やかな飛翔を不可能にする
白川氏の研究は長い間批判され続け冷遇されたと聞くが、むべなるかな
「中国学は文献学である」――これは大前提であり、
のみならず「○○は文献学である」はすべからく文系学問の基本となる
ところが氏は文献以前の甲骨文字と金石文を通して、古代中国の性格を蘇らせようとした
この発想と手法はおそらく文化人類学に近い。

白川学はどのようにアプローチしたか

本書では松岡氏が、白川学の手法の独自性を解き明かす際に柳田-折口と続く日本民俗学に言及するのだが、まさに然り
文化人類学、20世紀になってやっと始まったこの西洋発祥の新しい学問は西洋文化の諸要素の中から「神話」に着目した。
まったくその学問に接点がなかったであろう白川氏は、東洋の原初を探るに当たって、原初の漢字に着目した。甲骨文字・金文はその成り立ちのなかに物語を内封していたからだ。


例えば「口」(くち)という漢字がある。mouth、oracleである。この漢字はもちろん従来は普通にくちを解釈されてきた。くちからは言や語が発声されるので、言や語にくちの字が入っている、という風に。
ところが白川静はまったく違う解釈を出した。甲骨文字に於いてはこの「口」にあたる字は箱の形をしており(下記URL参照)、氏は「サイ」と呼び「祝詞や呪文といった重要な言葉を入れた容器」であると解釈した。

さらに「言」字の口の上にある点と三本の線は甲骨文字においては「辛」で、これは取っ手のついた鋭い針、刺青の刑を執行する道具であるそうだ。
これにより、「言」字の持っていた機能とは、

神に祈って何かを誓うときの神聖な言葉を示していたのです。もしその言葉に偽りがあるときは、鋭い針で入れ墨の刑をうけた。そのため「辛」がついている。そういう意味でした

このようにして「口・サイ」に関連する字、語・告・吾・話・占・吉・古・召・招・各・客・若・誤・呉・史・右・呪・兄…と一見現在の漢字の「意味」からは連想できない*2ような字と字のつながりを解き明かし、そこに垣間見える世界観をつかみ出した。


あきらかに白川静氏の研究は早すぎたのだ
そう、その研究は早すぎた、しかし間に合った!

白川学は何を目指したか

学者と芸人においては、長生きも芸のうちである。
大器は晩成す。
古代中国社会の成立と崩壊のプロセスを描き出し、
「同時に」
古代日本とその文化の源である古代日本語成立のプロセスをあきらかにする。。。
詩経万葉集
歌の持つ「興」(おこす)という機能を軸にして両者をお互い照応・フィードバックさせながら論ずる!
なんと大胆で、かつその精緻な展開をつぶさに見るとき美しい合理性を湛えていることか!


中国と日本における文化の「原初のフォーマット」をリバースする。
よくぞこんな偉業に先鞭をつけたものだ。精神世界である文化の黎明まで、遡れる限界まで遡ったのだ。もうこれ以上は学問では遡れない。
白川静は、歴史学の欲望である「我々はどこからきたのか」に、誰も思いつきもしなかった方向から一石を投じた。

「アジアの根底にひそむ深甚な世界観」

国学はいう「これは学問ではない」――彼らのいう学問とは文献学=文化成立後のテキストであるので、そのアーキテクチャにまで切り込んだ考察は、なるほどその学問の範囲からははみだしてしまう
言語学はいう「これは学問ではない」――結果的に表音文字アルファベットが生き残った西洋文化圏に生まれたソシュールが生みだした方法論を東洋文化圏にそのまま適用できるかどうか少し考えればわかりそうなものだ
つまり批判者は視野が狭いのである。己が世界観を守ることに汲々とし文化が寄って立つレイヤを踏みしめていながら省みる勇気がない。
俺がこの書を「複雑で立体的」「単純で明快な読み物ではない」といったのはここである。
漢字・古代中国文化・漢学などの知識のない方には、先入観がないと同時に、なじみのない人名や書名が頻出するので敷居が高い。
だが、中途半端に知識のある方は、いわゆる学会の「定説」や「常識」がネックになる。
ひとりの碩学が数十年の歳月で練り上げた功夫である。
そして古代中国が古代日本が様々な紆余曲折と相互干渉の数百年をかけて育んだ世界観である。松岡氏の言葉を借りれば「アジアの根底にひそむ深甚な世界観」。
もとより「平易」なものであるわけはないのだ。
だからあえて言う。
この本を読み理解するのは容易ではない。「だからこそ」読まれるべきである。

我々はどこへ行くのか

恐ろしい書物である。こころ乱される、狭い世界観を打ち砕く書物である。
日本に生まれ育った俺は多少「日本的」な考え方を知ってると素朴に信じていたのだが
浅はかな思い込みであった。
歴史や伝統の知識がないとか思索が浅いとかそんな「量」的な話ではないのだ
考える方向が質的に「見当違い」だったわけである。

地球を覆う電網に呪が走る。世界を寿ぐ。だから俺も参加する。

昨日の自分を手放し、外に出て行くのは勇気である。
いざ正剛氏の手を取って地獄へ。
なぜなら遥かなる天堂にはそこを経なければ到達できないのだから。




追記
本書に先立ち書かれたエントリー。読前あるいは読後にも様々な示唆に富む名文。
「日本にはなぜ文字が生まれなかったのか」。
さあ読もう。

*1:リバースエンジニアリングといえるでしょう

*2:口が単にくちであるなら、どうして「各」字や「兄」字に「口」が含まれているのだろうか?