小ネタ数発

太宰治の代表作「人間失格」の表紙を、漫画「DEATH NOTE(デスノート)」で知られる人気漫画家、小畑健さんのイラストにした集英社文庫の新装版が6月末の発行以来、約1か月半で7万5000部、古典的文学作品としては異例の売れ行きとなっている。

正しい。圧倒的に正しい。
小説は読まれてなんぼである。
「読めば」面白いならなおさらだ。
手に取らせる工夫はして当たり前。
他の作品にも是非応用すべきだ。
絵が付いてて読むんなら上等じゃないか。
てゆうか、これは本来ラノベのレーベルがやらなければならない仕事。
無能にもほどがある。
今すぐ行動なさい*1

これは困った。
商売としては素晴らしい。
法的にも現時点でなにか問題があるだろうか、無いような気がする。
求められるのが「結果」のみであるのなら、何がいけないのだろう。
就職予備校が奇麗事並べてどうするつもりだ。
解禁したところで、このサービスを利用しない生徒は利用しない。
教授は論文を読むプロなのだからほとんど見破れるだろうし。
でもまぁ、認めるわけにはいかないかな大学としては。それが大人の組織。

おっとっと。
もたもたしているうちに見逃していた選挙を、ありがたいことにUPLINKで上映してくれる模様。
感激。
ええそのうちいきますいきますともそのうち

ケータイ小説」についてはずっと気になっているのだけれど、まだ考え中でまとまった私見がない。
若年層にたくさん売れている事実。
写実性に優れているというわけではないだろう。
そうであるなら作者は全員ホストか援交女子になってしまう。
むしろそういう身の上の作者はひとりもいないのじゃないかなあと思う。
体験談をうたっている作品もあるようなのでそう主張するなら「あ、そうなの」と信じますけど。
体験談ひとつでもう書くことはなくなってしまうな。それは自伝であって小説ではない。
定年退職したおとうさんの自費出版と変わらない。
作者側にこれといった特徴がないのならば、読み手に必要とされている、ということか。
J-CAST記事には「イベントの参加者」というキーワードが出てくる。
増田エントリーには「もっと世間や社会のことが知りたいのだ。」「大人がくれない甘いものを自分で作ってしまったのだ。」「誰と喋っているか。「(想像上の)リアルな東京の同年代の中高生」である。」。ふーむ。説得力ある。憧憬、飢餓、無知。なるほど。
でもそれならファッション雑誌でも読んでドラマでも観てわいわいやればよろし。
かつてこれまでの世代がそうであったように。
「ケータイ」の必要なあるだろうか。
単に目新しい学生皆携帯の下地が整ったに過ぎない、とも解釈できるけど。


ケータイは極々私的なアイテムである。
それは携帯電話とは多分違うものだ。
自分の分身であり没入の度合いによっては自分そのものと考えていい概念ではないか。
ところで俺はキーワードは「泣ける」かなと漠然と思う。
共感。仲間。認証。承認。
友達、特に「本当の友達」いないのかなあ、とか。求めてるのかな。
自分探し世代が過ぎ去って仲間探しの時代が来たのかな。
前世の云々を思い出す。
それがケータイを通して行われるということ。
しかしやはりそれならなぜ「書籍が売れる」のだろう。
ふと「嬉しい」のではないかと感じたが、それがどういうことか俺にもまだわからん。
今日はここまで。

*1:版権の切れた名作ならリスクは相当低いはず。乱発してもいくつか当たればもとがとれそうなのは素人だからか