嫌われ松子の一生:夕方映画館を出て俺とカミーユは憔悴した顔を見合わせ「今日はもう帰ろう」と言った(結局、帰らなかったけど)

監督・脚本:中島哲也
川尻松子:中谷美紀
川尻笙:瑛太
龍洋一:伊勢谷友介
沢村めぐみ:黒沢あすか
八女川徹也:宮藤官九郎
小野寺:武田真治
島津賢治:荒川良々
岡野健夫:劇団ひとり
片平なぎさ片平なぎさ

感想。愛憎笑怒相半ばす。俺は見てよかった。俺は見なければよかった。他人には間違っても勧めない。


あらすじ。「嫌われ松子」とあだ名される中年女性が殺された。彼女の甥っ子は叔母の存在を初めて父親(松子の弟)から聞かされる。戸惑う甥っ子。彼女は如何なる一生を送ったのか?


以下ネタバレ含む。
外堀を埋める。
部屋のあのポスターや船上の彼女を見つめる喧嘩小僧などの伏線、花のCGや光のエフェクトを散りばめた演出、不思議な光線の使い方、癖と実力のある俳優陣、構成の妙(ラスト以外)、ミュージカル仕立ての歌と踊り、転げ落ちるようなストーリー。
中谷美紀の怪演。
俺の中で素晴らしいと手放しで絶賛するこころと、なんてものを見せてくれたんだという激怒が葛藤している。疲れ果てた。鑑賞直後強い目の痛みと激しい頭痛に見舞われた。ぷんすか。


きっと多くの人にいろいろな感想が渦巻いてはいるだろうが、絶対に確かなのは中谷美紀の大奮闘。これだけは疑いようがない。演じるのが、一年、早くても遅くても、あれほど凄まじいものにはならなかったのではないか。小さなことではあるけれど奇跡といってよいと思う。
無駄に狼狽し理不尽に殴られ続け何度も左目あたりを傷つけられ鼻血を垂れ流し大いに怯え絶望し絶叫し、幸せに笑顔を浮かべ虚無に囚われ。
「悲鳴」が悲鳴に聞こえて演技に見えない。ただわめき散らす女優は吐いて捨てるほどいるし、実際おそらく中谷女史も二度とは再現できないかもしれないけど、未だに本物の悲鳴ではなかったかと思っている。
彼女以外の方々の熱演もまったく見事なものだが、主演の入り込みが尋常でないため単純な熱量の時点で飲まれてしまい誰一人太刀打ちできていない。
なんと幸せな技術と熱意の一致だろうか。こういうことも稀にあるのだ。集団創作作業の醍醐味を久方ぶりに堪能しました。


俺の本題。独り言。
俺は後半の光GENJIのシーンで場内の観客と一緒に大笑いした。それから俺は泣き出した。映画を観てぼろぼろ涙を流したのは生まれて初めてで(笑い泣きは含まない)、自分でも驚いた。滂沱のなみだは六年ぶりだ。うまく言葉にする自信がない。
それまでの数十年、彼女はひとりになるよりはマシ、とどれだけ暴力を振るわれても男に縋り続けた。彼女を抱き彼女を殴る生身の男に。たにんがどう思おうともそれはコミュニケーションであり、不幸な女だと同情する権利など誰にもありはしなかった。そんな半生を送った女性が辿り着いたのが偶像崇拝であるという事実。
これはどうやら俺の世界観に猛烈に抵触するらしい。例えば俺は自分がふしあわせにならないことを「知っている」。そういう運命なのにいつの頃からか気付いていていて、それから俺は逃れることが出来ない。
劇中松子が幾度か口にする「なんで」という台詞。この理由の不在。
悔し涙。俺は途方に暮れる。


あのシーンで泣いた人は居ないわけではないだろう。メジャーな泣き所のひとつかも知れない。
俺の理由で泣いたのは俺ひとりであると信じる。俺ひとりであって欲しい。何人も、俺の理由で泣くことを俺は許さない。


「あの修学旅行。いやあの父親の態度。いやあの妹の病弱。そうでなくともあの元生徒がもう少し強ければ。」…
鑑賞中まったく考えなかった。
彼女は控えめにみても選ばれたのであり、劇中の指摘通り単に神であったのだろう。
Christos。誰の罪も贖わなかった救世主。大工の小倅とは逆に聖職から降りていった。
ここは21世紀の日本であり、それに相応しい救世主が必要なのだと思う。
人類の経験は教える。”飯屋*1を名乗るのは偽預言者だ””神の顕れるとき神のように見えることはない”
「悪には悪の救世主が必要なんだよ」
だからこれは嫌われイエスの一生である。




ああむかつく。

*1:エルフ17