友情を考える
友情を疑う―親しさという牢獄 清水真木 中央公論新社 2005-09 by G-Tools |
自由や平等や平和主義並に疑うことが危険な代物。
デカカァァァァァいッ!!!!!! 説明不要!!
哲学界の大巨人アリストテレスだ!!
「友人たちよ、友人などいないのだ」
「そんなの当然」?? ニヒリズムの甘い罠にはかかるまいぞみっともない。
さて要約。
- アリストテレス→キケロ→モンテーニュ→ルソー→カントの友情・友人についての考えを紹介。その考えを理解するのに必要なので当時の社会情勢と一般的な意識、各哲学者の置かれた状況・人柄を併記。
- 友情が歴史上大きなイベントとして立ち現れた自由平等「友愛」のフランス革命。
- フランス革命を理論面で支えたルソー友情論の、そのおぞましさ(彼の信奉者でさえ完全無視)
- 「友人や友情の意味を明らかにする試みに携わっているのは、少なくとも最近百年に限れば、哲学者ではなく社会学者であったということが出来る」
- ハーバーマス曰く、十八世紀半ばに「公共性の構造転換」が起き「市民社会」が誕生する。「市民的公共性」の特徴は、討議の公開性、討議の公権力からの独立、私生活のための領域と公共の空間との厳密な区別などなど。
- ハーバーマス曰く、二十世紀半ばに二度目の構造転換が起き、それらの特徴は失われた。
- だから論者は結論する。二十一世紀の日本にある友人・友情は本来の意味を失った残滓であると
思い切ったことをいう。
さて「ともだちひゃくにんできるかな」といい「ともだちじゃないか」という。携帯やメーラーのアドレス帳の数量を気にし名刺を数えて悦に入る。
さて民主主義といい市民社会といい、社会全体や地域社会へのボランティアをカリキュラムに組み込み参加する「自由」のみを認める。
友情の亡霊と、要求する市民社会。これが今の日本だそうな。
明日の市民社会を友人たちとともに考え議論する、このあるべき姿が失われた以上「友情」「友人」を「使ってはならない」。
現代日本が(アメリカのように)ヨーロッパ社会の歪な末裔である以上、原義を西洋の歴史に求めることを無意味だとは思わない。なんといっても江戸時代のほうがよっぽど心情的に理解できない社会だもの。
論者の警鐘は俺の足下を指し示して鳴り響く。なかなか良いものでありました。
しかし俺は楽観する。
なるほど二度目の構造転換後しばらく公共性は失われていたような気がする。友情友人は薄ぼんやりしたあいまいさ、改めて問うに値しない「自明」、つまり世間にそう期待するべく要請された空々しい権威の感触だ。
論者の焦燥もっともだが道はある。
三度目の構造転換が起こればよろしい。
俺は楽観する。
討議の公開性、討議の公権力からの独立、私生活のための領域と公共の空間との厳密な区別などなどの特徴を備えた「市民社会」「市民的公共性」がもう一度現れればいい。
それが現れるのではないかと。現れているのではないかと。
俺は楽観する。
第3章 第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
さしあたってマニュアル。議論せよ友人たち。